◆「真珠物語」 片山智恵子
私の母は、今年八十歳になります。
母は、愛媛県のゴゴ島という所の出身で、当時、多くの子供が貧しかったように、私の母も貧しく、母は、或る家に養女に出されました。
そこの家も子供が多く、母は子守としてもらわれていったようなもので、小学校にもたった一ヶ月しか通えず、殆ど文盲の状態でした。
母が字を覚えたのは成人してからで、それも独学で頑張ったのです。
このことでもわかるように、母は非常に意思が強く、どんなことでも乗り越えてきました。
NHKのテレビドラマの『おしん』以上の苦労をしたといっても過言ではないでしょう。
特に、父が愛人の元に走り、二人の子供を連れて、大阪から故郷の愛媛に戻り、魚の行商をして子育てしていた時代のことは、同じく子を持つ母となった今の私には、こと更身に染みて、母の苦労を感じ入ります。
私は正直言って、母の人生には何ひとつ良いことがなかったように思っていました。
父と復縁してからも、父の浮気はいっこうにおさまらず、寝たきりになる八十過ぎまで続いたのですから。
その頃、父の便のついたおしめを洗う母に、「お母ちゃんの人生て、なんやったんやろね」と聞いたことがありました。
すると母は、ふっと笑って、「ほんま、阿呆みたいな人生やな。けどな、ひとつだけ、ええことあってんで」と言うのです。
私は意外な気がして、「どんなこと?」と更に聞きました。
すると母は、洗濯をやめ、どこかの棚から小さな箱を持ってきて、私の前に置きました。
そして、「開けてみ」と言うのです。
私がそっと開けると、そこには、真珠のネックレスが入っていたのです。
「どうしたん?これ」と驚いてききました。
だって、この真珠のネックレスを見たのはその日が初めてで、話すら聞いたことがなかったからです。
母は私の質問に遠い目をして答えてくれました。
「あれはお母ちゃんが十八の時やった。松山で奉公に出てる時には、その店のぼんぼんがお母ちゃんを見染めてな、お母さんに結婚したいて言わはったんや。もちろん、お母さんは身分が違うて反対しはってな。けど、そのぼんぼんは絶対結婚するって頑張ってくれはって、それでお母さんも、ほやったら、今から二年、家のことと店のことの両方をしっかり務めたら許したるって言うてくれはったんや。
それでお母ちゃんも頑張って働いてな。あと二年や、二年やって、ぼんぼんと励まし合うて。けど、それから一年たって、ぼんぼんは肺病で倒れてしもうてな。当時は肺病いうたら、死の病でな、そのぼんぼんも半年ぐらいで、危篤になって。その病床でお母ちゃんを枕元に呼んでな、この真珠のネックレスをくれはったんや。
結婚する時に渡すつもりやったけど、できそうにないからって。そう言うて、すぐに死んでしまい
はったんや……」
そう話す母の目は少し潤んでいました。
その後、父と見合いで結婚したのですが、その真珠のネックレスだけは、父に内緒でずっと隠しもっていたと言うのです。
私はその話を聞いて、ホッとし、そして胸が熱くなりました。
その人から真珠のネックレスをもらって、もう五十年程もたとうとしているのに、今も尚、大切に手許に持っている母。
母は更にこう言いました。
「ぼんぼん-あ、清吉さんていうんやけどな、清吉さんはほんまに優しい人やった。お母ちゃん、清吉さんに大事にされて倖せやった。
あんただけに言うけどな、今でも時々夢に出てきはんねんで」
そう言って、母は乙女のようにはにかみました。
私は、清吉さんという会ったこともない、その人に心から感謝しました。
何の報いもなかったと思っていた母の人生に、こんなに美しく輝いた時間を捧げてくれた清吉さんに-。
あれから五十年たった今も、あの真珠のネックレスは、母の手許で静かに息づいているのです。
(「パール・エッセイ集Vol.1」の作品より)